ひっそり絵とか日記とか
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今さらですが、無限の住人完結しましたね。私も学生時分、沙村絵にシビれて随分真似したクチですので感慨深い。
そんな訳でコミックス派故、最終回は本誌連載を読んできた相方から内容を先に聞いてたんですよ。曰く
「万次は江戸処払い、多分凜がついてって終わり。あとはあっさり明治時代に…」
と。
ところが今回友人宅でコミックス最終巻を見たら肝心な部分が全く違ってた。あきらかに凜ちゃんとはここで別れてるやん!
で、ここから解釈の話になってくるんですけれども
恐らく相方は、凜が万次との別れに堪えきれず大泣きするシーンを見て
「こんなに悲しむんだから後を追うだろう」という結末を望んだ、のだと思うのですよ。
私は「ここで泣いてふん切って家を再興、子孫が万次と再会」という話だと思ったんだけど。
結局解釈というのは、己の希望…こういう話で“あってほしい”という物であると。
そこで思い当たった事がひとつあって、
『天空の城ラピュタの隠しエンディング』という話。
テレビ放送した際、スポンサー画面で止め絵を出しただけという記録しかないにもかかわらず、随分たくさんの人の中で
「パズーがシータを故郷に連れていった」という後日談が記憶されているアレ。
あれがまさに「こういう話であってほしいという希望」なのじゃないか?
私が、むげにんの最終話をかなり曖昧な情報で得たにも関わらず
「あれ?本誌と結末が全然違うけど収録で直したの?」と、こうあってほしい記憶を信じて記録の方を疑った思考の罠が、それに当たるのではないか。
ラピュタの最後は結構投げっぱなしというか、危機を脱したばかりのけっこう腰の座らない所で終わります。
おそらく最初は子供なんかがあのテロップ背景を見て学校で「あれはこういうオチなんだ」なんてちょっと気の効いた二次創作を語る
それを信じた子が、家族にその話をする、ラピュタはかなりの回数放送されているので、当時の放送を見てないけどそれで情報を知った子や大人が何回目かの放送を見る
結果、
「あれ、あったはずのエンディングは?」
ってなる。
それがここまで信憑性を持って語られるのは、つまりはそれが「みんなの望んだ未来の記憶」だったのだろうな、と私は思うのでした。
そんな訳でコミックス派故、最終回は本誌連載を読んできた相方から内容を先に聞いてたんですよ。曰く
「万次は江戸処払い、多分凜がついてって終わり。あとはあっさり明治時代に…」
と。
ところが今回友人宅でコミックス最終巻を見たら肝心な部分が全く違ってた。あきらかに凜ちゃんとはここで別れてるやん!
で、ここから解釈の話になってくるんですけれども
恐らく相方は、凜が万次との別れに堪えきれず大泣きするシーンを見て
「こんなに悲しむんだから後を追うだろう」という結末を望んだ、のだと思うのですよ。
私は「ここで泣いてふん切って家を再興、子孫が万次と再会」という話だと思ったんだけど。
結局解釈というのは、己の希望…こういう話で“あってほしい”という物であると。
そこで思い当たった事がひとつあって、
『天空の城ラピュタの隠しエンディング』という話。
テレビ放送した際、スポンサー画面で止め絵を出しただけという記録しかないにもかかわらず、随分たくさんの人の中で
「パズーがシータを故郷に連れていった」という後日談が記憶されているアレ。
あれがまさに「こういう話であってほしいという希望」なのじゃないか?
私が、むげにんの最終話をかなり曖昧な情報で得たにも関わらず
「あれ?本誌と結末が全然違うけど収録で直したの?」と、こうあってほしい記憶を信じて記録の方を疑った思考の罠が、それに当たるのではないか。
ラピュタの最後は結構投げっぱなしというか、危機を脱したばかりのけっこう腰の座らない所で終わります。
おそらく最初は子供なんかがあのテロップ背景を見て学校で「あれはこういうオチなんだ」なんてちょっと気の効いた二次創作を語る
それを信じた子が、家族にその話をする、ラピュタはかなりの回数放送されているので、当時の放送を見てないけどそれで情報を知った子や大人が何回目かの放送を見る
結果、
「あれ、あったはずのエンディングは?」
ってなる。
それがここまで信憑性を持って語られるのは、つまりはそれが「みんなの望んだ未来の記憶」だったのだろうな、と私は思うのでした。
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